小説『春を背負って』の舞台に行ってみた。梅雨を迎える直前、晩春の奥秩父。
初日に目指すは甲武信岳（こぶしだけ）
19歳から28歳まで極真空手に精を出した自分にとって「拳」の呼び方と山容を持つ山は特別な存在。
新宿発の京王線の始発は5時19分。その前に、なか卯に寄るが緊急事態の名の下にテイクアウトしかやっていない。朝飯を食べそびれてしまった。世の中が不便になったのか、今までが贅沢だったのか？
高尾は曇っていたのに、山梨の塩山に着く頃には日射しが強烈になっていた。この登山のために梅雨入りを待ってくれたような好日だ。
大行列のバスに乗り、10時前に西沢渓谷に到着。30分前から並んでよかった。
新緑の木々が麗しく、レンゲツツジのオレンジが清々しい。
奥秩父を愛した明治・大正の岳人である田部重治さんのレリーフに挨拶をしてから「徳ちゃん新道」を登り始める。
甲武信岳は2回目。前は2017年1月21日に先輩と来た。特別な記憶がある山だ。
人も動物も温度も色もない。水墨画のような深林をかきわけ、ひたすら登っていく。「無」という贅沢。雪山の魅惑ここにあり。
江戸時代に登山の文化があり（富士講や御嶽はのぞく）、葛飾北斎や歌川広重が甲武信岳から富士山を拝んでいたら、『富嶽三十六景』や『富士三十六景』はまったく別のものになっていただろう。
雪がなければ往復5時間ほどだが、思いのほか足を取られ登頂したのは夕方。強風と寒さで凍えそうだった。
疲労困憊で下山中、アイゼンの片方を失くしたことに気付いたが、辺りは真っ暗で戻る気力がない。諦めて下山しようとしたとき、先輩が急登を1時間ほど登り返し、わざわざ拾ってきてくれた。
「この人なら山で命を預けられる」。戦友ができたと思えた登山だった。夜8時過ぎに下山したとき、夜空に輝く星の美しさは一生忘れない。
あれから4年経ったが、今でも先輩とは毎月、山で再会している。甲州側から登るのは今回を最後にし、あのときの憶い出を冷凍パックで保存しておきたい。
甲武信岳
甲武信岳は標高2,475メートル、山梨・埼玉・長野の三県にまたがる山。「甲州（山梨）」「武州（埼玉）」「信州（長野）」の頭文字をとって名付けられたとされ、県境を象徴する。
山頂からは、南アルプスや八ヶ岳、遠くは富士山までも見渡すことができ、展望は美しい。奥秩父山塊の主稜に位置し、深い森林と豊かな水源に恵まれている。山頂近くには、荒川、笛吹川、信濃川の源流があり、「分水嶺の山」として知られている。
ルートは複数あり、長野県側の毛木平からのアプローチが一般的。埼玉県の西沢渓谷や十文字峠からの縦走路も人気がある。
登山道は変化に富み、苔むした森や沢沿い、稜線歩きと、四季折々の自然美を楽しめる。春にはシャクナゲ、秋には紅葉が山肌を彩り、静けさの中に力強さを湛えた山として、多くの登山者に愛されている。名前の「こぶし」は、山頂付近に自生するコブシ（辛夷）の木に由来するとも言われている。
【長野県側】毛木平（もうきだいら）ルート
アクセス：長野県川上村・毛木平登山口（標高約1,380m）
所要時間：登り約4〜5時間／下り約3〜4時間
最も一般的で整備されたルート。登山口には広い駐車場とトイレがあり、アクセスも良好。千曲川（信濃川）源流沿いの道をたどりながら、徐々に標高を上げていく。沢沿いの静けさと、深い森の美しさが印象的。途中、「ナメ滝」や「三宝山（2,483m）」を経由して甲武信岳山頂へ。
② 【山梨県側】西沢渓谷〜徳ちゃん新道ルート
アクセス：山梨県山梨市・西沢渓谷入口（標高約1,150m）
所要時間：登り約6〜7時間／下り約5時間
西沢渓谷の美しい渓流を経て「徳ちゃん新道」を登るロングルート。登山口からの標高差が大きく、体力勝負のコースだが、苔と沢に包まれる美しい自然が魅力。途中、甲武信小屋を経由し、山頂へ。秋は紅葉、春は新緑が美しく、登山の充実感も高い。
③ 【埼玉県側】十文字峠ルート（縦走向き）
アクセス：秩父市・三峰口方面からアプローチ
所要時間：縦走で1泊2日〜
奥秩父主脈縦走路の一部。十文字峠小屋や雁坂峠を経て、甲武信岳を目指す本格派ルート。テント泊や山小屋泊が前提となる。静かで人の少ないルートが多く、深山幽谷の空気を味わえる。奥秩父の山並みをじっくり味わいたい人におすすめ。
登山のポイント
-
山頂直下は岩場もあり、残雪期はアイゼンが必要な場合もある
-
甲武信小屋（標高約2,400m）は山頂まで20分ほど。テント場もあり
-
水場が豊富だが、念のため浄水処理を推奨
-
登山道は長く変化に富み、初心者でも行けるが体力は必要
甲武信岳は、「急峻な岩峰」ではなく、「静かな源流の道」をたどるような山。
一歩一歩、足元から水が生まれ、森が呼吸し、やがて視界が開ける――
そんな登山の詩情に満ちた山でもある。
雪山と温泉の本を出版しました♨️
