
東北の山のシンボルは、天上の湿原とブナの原生林である。
令和元年11月3日、文化の日。八甲田山に登頂した翌日、朝5時に目を覚ますと秋田の十和田は大粒の雨に降られていた。
「朝起きてから山に登るか観光か決めよう」と先輩に言われていたものの、はじめから自分の羅針盤は白神岳を指していた。
出発の朝7時50分になっても小雨は止まなかったが「昼から晴れるから」と半ば強引に先輩を説得。
10時30分、雨上がる。昔からマタギの間で「白神の岳は9里(約35キロ)もある」と言われた長大な峰々。スタートするには遅すぎるが、この山を置き去りにして東京へは帰れない。今や世界遺産で有名な白神山地だが(白神岳は世界遺産の指定地域には含まれない)、深田久弥さんの著書に白神の文字は見当たらない。あの深田さんが登っていないとは考えにくいが、全国に白神山地の名が知られるようになったのは1980年代に入ってからという。深田さんは1971年に亡くなられているから、未踏かもしれない。
白神産地はブナの木が有名だが、中腹に行くまでは杉の木が続く。ブナが顔を出すのは標高を上げてから。40分も歩くと道は二手に分かれる。ノーマルルートのマテ山コースと、険路である二股ルート。後者は白神川が流れる沢沿いであり、古くから白神信仰の参詣道として地元の人々に愛されてきた。
平成26年8月の大雨により崩落し、一度は立入禁止となったが再整備により復活。どちらのルートを選択したかは言うまでもない。少し歩くとブナの木が顔を出し始める。待望のご対面だ。1本で2トンもの水を蓄えると言われるブナは別名「緑のダム」と呼ばれる。
泥道に苦しめられた前日の八甲田山とは真逆に、白神岳は雨上がりの直後にも関わらず水はけが良い。<森の女王さま>とも呼ばれるブナの神秘。
紅葉にはまだ早いが、木々は黄葉に色づき始めている。白神の錦秋はこれからだ。優しさばかりが白神ではない。アップダウンが連続し、沢は渡渉を強いられる。ミレーのトレッキングシューズは靴の中までビチョビチョ。しっかりした登山靴を持ってくるべきだった。一ノ沢、二ノ沢、三ノ沢を越えると、ここから長大な急登の物語が始まる。
急登が何よりの大好物の自分は気分ランランで駆け上がっていく。このとき、後ろの先輩がシャリバテに陥る。もう引き返そうと提案されるが、山頂を踏まずしての撤退はありえない。頂上はゴールではなくスタート。そこから本当の登山が始まるのだ。山頂が顔を出すのはスタートから3時間ほど登ってから。まだまだブナの森を越えていかなければいけない。なのに、不思議なほど脚の疲れを感じない。異常なほど脚が軽い。久しぶりに体験するクライマーズ・ハイ。翌朝は膝と右のふくらはぎがパンパンに張っていたのに。これも白神の神秘。
道中、なめこ、ブナハリタケ、キクラゲなどが顔を出す。山の人であるアミさんは、山の幸を発見するたびに狂喜して足を止める。よくこんな小さなキノコに気づくもんだ。
振り返ると日本海。山の急登だけでも楽しい上に、海の景色もプレゼントしてくれる。白神岳はブナのイメージが強いが、日本海とセットになって初めて価値が輝く名峰。
58歳のアミさんは、急登に臆することなく標高を上げる。クライマーズ・ハイと遜色ないほど楽しんでいた。自分も同じ年齢でこんな登山ができるだろうか?アミさんは出会った中で、誰よりも山の人だ。体力、スピード。他にも山登りに必要な能力はあるが、何より山を愛する才能に憧れる。
最後の最後に、まさかの藪漕ぎ。Nikonのミラーレスの部品とLEKIのストックのハンドル部分を紛失した。4時間23分かかり、白神岳に登頂。奥に広がるは世界遺産・白神山地。ブナの絨毯に目が泳ぐ。
いつまでも眺めていたい。この自然に溶けてしまいたい。そんな気分にさせる。昨日の八甲田の強風が嘘のように静かな時の風が流れる。なんて気持ちのよい頂上。少し寒いのでレインウェアを羽織るが、心は穏やかで暖かい。雲に隠れていたが、晴れていれば雄大な岩木山もどっしり構えている。
西を向けば夕陽の沈む日本海。1万8000を超えると言われる日本の山の中で、これほど贅沢な山岳展望を知らない。下山する稜線の先にも日本海。海へ向かって山を下りるなんて、バチが当たりそうな登山だ。
山頂ではアミさんが持ってきてくれたおでん。あまりの美味しさにパクパク食べて写真を撮ったのは最後の方。おにぎりと豚汁も用意してくれる。3人分の食を担ぎながら急登を上がってきた。なんてすごい人なんだ。山を愛し、山人を愛す。夕暮れの下山。日本海に向かって歩を進める。落日の中を歩く登山もまた楽しからずや。
17時を過ぎると、白神岳の夜の帳が落ちる。ヘッドライトを使った登山は人生で3回目。車に着いたのは18時30分。満天の星空を見上げる。翌朝は白神岳で採れたキノコを使った味噌汁を作ってくれた。味の感想は書くまでもない。
白神岳の紹介
白神岳──その名のとおり、白き神を祀るがごとく、静謐にして峻烈な山である。標高は1,223メートル、数字だけ見れば高山の列には加わらぬ。だが、この山を軽んじてはならない。なぜなら、その背後には、原生のままのブナ林が広がり、ひとたび足を踏み入れれば、時代の流れを忘れさせる森の息吹があるからだ。
山頂を目指す道の多くは、二股登山口から延びている。最も一般的なルートは、蟶山(まてやま)を経て頂に至る往復約11km、標準コースタイム7時間前後の道程である。序盤はブナ林がやわらかな木漏れ日を落とし、中盤には沢沿いを辿る涼やかな道が続く。そして、やがて森林限界を抜ければ、視界は一気に開け、日本海の青と白神山地の深緑が交わる壮麗な景色が広がる。健脚の者には大峰分岐を経る周回ルートもあり、より変化に富んだ山旅が楽しめる。
アクセスは、JR五能線の深浦駅から車で約30分。登山口付近には駐車場と簡易トイレがあるが、山中に水場は乏しいため、十分な水の携行が肝要である。公共交通機関を用いる場合、シーズン中に運行される登山バスやタクシーを利用するのが現実的だ。
山頂に立てば、眼下に荒々しい海がきらめき、振り返れば幾重にも重なる山並みが見送ってくれる。白神岳は、ただ登る山ではない。そこに立ち、森と海と空の交わる光景を胸に収めるとき、人はこの山の名が語る「白き神」の意味を、わずかにではあるが知るのだ。
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